ブログ「時田・幻椏・芳文の「我貌徒然」」の記事
携帯電話不携帯
昨年の震災後、計画停電や節電で、当たり前に思う日常が脆いシステムの上に構築されたものである事を思い知らされた。この上なく快適で便利な生活も、例えば電気が無ければ何も機能しない。便利は、不便なのである。
昨日、携帯電話を忘れて東京に出てしまった。電池切れを恐れて意識して早めの充電をしたのだが、出かける際の慌しさにすっかり放念してしまった。熊谷駅に入り、人身事故による列車の遅れを知った時、携帯を忘れた事に気付いた。待ち合わせの時間に間に合わないかも知れないが、連絡の術も無い。バックには未使用のテレホンカードが何枚も入っているが、公衆電話が無い。実のところ、公衆電話があっても先方の電話番号を記憶していないし、メモも持っていない。全て携帯のメモリー任せなのだから、情況の改善は出来ないと言う事である。腹を決めて、遅刻の失礼を詫びるきり無いのだが、酷く動揺している私自身を感じていた。携帯を持つようになってから時計も持っていない。我がネットワーク・ツールのセンターに携帯が居座っているのである。幸運に、大きな支障も無く用事を済ます事は出来たが、便利な時代の不便をしみじみと感じたのである。
帰って我が携帯を確認すると、多くのメール、伝言が入っていた。不携帯と言うミスを超えて、反応の無い携帯には、不信と不満を抱くものである。苛立つ時代なのである。